息子が3歳のころのこと。
先生とお友だちが、お歌をうたって楽しそうに動き回っていました。
息子はその輪の中には入らず、しばらく様子を見ていたかと思うと、突然、
ドンッ!
と、お友だちを突き飛ばしたのです。
突然、突き飛ばされたお友だちは、大泣き。
わたしは、あまりのショックで呆然としてしまっていました…
その夜は、眠ることができませんでした。
どうして、こんなに暴力的になってしまったのかしら…
わたしの息子への対応が悪かったに違いない…
もしかして、さみしかったのかしら?
いろいろ考え続けていました…
そして、数日経って、ふと思ったことがあります。
息子は、他人なんだ、と。
わたしはわたしで、自分の言動を反省して、改善し続けてゆくしかないけれど、
息子には、息子の学びがあって、
彼の生まれもっている性格や彼の人生にまでは、タッチできないし、その必要もないのだ、と。
息子は、息子。
わたしは、わたし。
では、自分が自分であって、他の誰かではないのは、何によってなのでしょう?
こちらにも書いてみました。
Contents
暴力を振るう子どもの受けとめ方 自分を知る
わたしと、息子。
血はつながった親子です。
体型や容姿、性格も、似ているところがあります。
それは、肉体的なつながりですね。
けれども、わたしとは、この肉体のことでしょうか?
息子は、その身体のことなのでしょうか?
肉体的なはじまりはいつからかと考えてみたら…
それは、受精卵でしょうか。
もしも、わたしたちが肉体的な存在だけだとしたら、
わたしたちは受精卵からはじまっているといえそうです…
でも、「受精卵からはじまる」といっている、そのわたしの方をこそ、自分といえないでしょうか?
物質的現象を、やはり認識している意識がある。
その意識は、どうしても、わたしから離れなくて、
というより、離れたらものを意識できなくて、
それを自分というしかなくなる…
暴力を振るう子どもの受けとめ方 自己意識の違い
では、「その常に既に存在しているところのそれ」、それをわたしというしかないとしたら…
わたしと息子が違うのは、自己意識が違うから、ということになりそうです。
自己意識(じこいしき)、あるいは自意識とは、自己が存在することに気づく(意識上に上る)能力[1]、外界や他人と区別された、自我としての意識[2]。
出典:ウィキペディア「自己意識」
とすれば、自分と他人を別け隔てているものは、別個の肉体であるからではないし、
逆に、血がつながっているから、自分の延長というか、近しい存在であるとはいえなくなってくるようです。
子育てをしていても、自分とは何なのか、ここに戻ってくるようです。