今日はひなまつりですね。
一説によると、お内裏様とお雛様は、素戔嗚尊と天照大神をあらわしているそうです。
素戔嗚尊と天照大神といえば、『古事記』の天の岩戸の神話が思い浮かびます。
今日は、天の岩戸開きのお話から、自分について考えてみたいと思います。
天岩戸(あめのいわと、あまのいわと)[注釈 1]とは、日本神話に登場する、岩でできた洞窟である。天戸(あめと、あまと)、天岩屋(あめのいわや)、天岩屋戸(あめのいはやと、あまのいわやと)[注釈 2]ともいい、「岩」は「磐」あるいは「石」と書く場合もある。
太陽神である天照大御神が隠れ、世界が暗闇に包まれた岩戸隠れの伝説の舞台である。
出典:ウィキペディア 天岩戸
Contents
【自分を知る】天の岩戸開き
【自分を知る】素戔嗚尊が高天原へやってくる
伊邪那岐命が禊をして、3人の神様が生まれました。
天照大神、月読命、そして、素戔嗚尊です。
父の伊邪那岐命は、天照大神には天を、月読命には夜を、素戔嗚尊には海を、それぞれ治めるように命じます。
ところが、素戔嗚尊は、これを拒んで激しく泣くので、伊邪那岐命によって追放されてしまいました。
そこで、素戔嗚尊は、去る前に、姉の天照大神のもとへ暇乞いをしようと、天の国へやってきます。
山川国土を轟かせてやってくる素戔嗚尊。
高天原の国を奪いにきたのではないかと、天照大神は警戒しました。
そこで、素戔嗚尊に邪心がないかどうかを確かめるため、「うけひ」という占いをします・・・
【自分を知る】天照大神の天の岩戸隠れ
「うけひ」に勝って、邪心がないことを証明した素戔嗚尊。
ところが、勝ったのをよいことに、天の国で暴れまわります。
そんな素戔嗚尊を、天照大神は「かわいい弟」と、咎めないでおりました。
それでも、乱暴は止まるところを知りません。
恐れつつしんだ天照大神は、ついに天の岩戸の中に隠れてしまいます。
日の神様である天照大神が籠ってしまったので、高天原は真っ暗闇です。
困った神々は、策を練ります。
天宇受売命が岩戸の前で踊り、それを見た神々は喜んで笑い声をあげました。
爾に高天原動みて、八百万の神共に笑ひき。
是に天照大神怪しと以為ほして、天の石屋戸を細めに開きて内より告りたまはく、「吾が隠り坐すに因りて天の原自ら闇く、亦葦原中国も皆闇からむと以為ふを、何の由以にか天宇受売は楽を為、亦八百万の神も諸咲へる」とのりたまひき。
荻原浅男『古事記への旅』(日本放送出版協会、1979年)
笑い声に誘われて、天照大神は岩戸の外へ出てきました。
そして、めでたく世界は明るさを取り戻したのでした。
【自分を知る】解釈いろいろ
知人は、この天岩戸の神話をこう解釈しました。
日食にしては、太陽の隠れている期間が長すぎる・・・
日食は数時間で終わるのに、古事記の記述では数日かかっている・・・
これは、火山の噴火でしょう。
なるほど、面白いですね。
わたしの解釈はといいますと・・・
これは真理をよくあらわしているように思います。
【自分を知る】存在の構造
はじめ、高天原は、天照大神だけの純粋な光の世界でした。
そこへ、弟の素戔嗚尊がやってきました。
勝負に勝ったと豪語して暴れ回る、闇の存在としての素戔嗚尊。
天照大神は、「かわいい弟」として愛をもって受け入れます。
そして、岩戸隠れを迎えます。
光を否定して、闇の世界に入ります。
光は、闇があるから光です。
どういう訳か、存在は、反対のものが自己のうちに含まれている構造をしているようです。
自分でないものを経験する時期がある。
それは、自己を意識化するために必要な行程なのでしょう。
自己否定が行き着くと、「笑い」が起こります。
この「笑い」が、否定を超える契機となります。
闇を経験した後の世界に、再び光がさします。
いわば、闇を含んだ光。
これは以前の光が戻ったのではなく、新しい光です。
【自分を知る】まとめ
今日は、『古事記』の天の岩戸開きのお話から、自分という存在について考えてみました。
- 岩戸隠れの時期=本来の自分でないものを経験する時期 を経ることで、本当の自分を意識化できます。
- そして、笑いによって、自己否定を含み込んだ、新しい自分になれるのです。
辛い経験も、新しい自分の糧になると思えば、希望になりますね。
ちなみに、辛い経験を乗り越え中のわたしのことを、こちらに書きました。
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