4歳の息子は、自分のことを「〇〇くん」と呼んでいます。
「これは、〇〇くんの。」
「〇〇くんがやる。」
ところが、最近、保育園で覚えてきたのか、
「ぼく」
「おれ」(!)
なんて言うように。
今日は、自分の呼び方から、自分について考えてみたいと思います。
Contents
【自分を知る】名前と一人称
生まれたばかりの幼児は、まだ、周りと一体化した夢見がちな世界にいるようです。
お母さんとの関係が、とくにそうですね。
お母さんと赤ちゃんは一体になっていて、赤ちゃんはすべてを取りこんでいるようです。
広大な自己の広がりをもっています。
そのうちに、周囲への意識が鮮明になってきて、周りの大人たちが、自分のことを名前で呼ぶのに気がつきはじめます。
そして、それを模倣して、自分でも、自分のことを名前で呼ぶようになるのでしょう。
「〇〇くんはね・・・」
「〇〇ちゃんが・・・」
すると、自分と世界が区別されるようになります。
自分以外の人として、他人が出現します。
限られた自己を意識するようになります。
そのあとで、一人称の「ぼく」「わたし」がわかるようになります。
けれども、これまで、自分のことを名前で呼んでいたので、この「ぼく」や「わたし」は、「〇〇くん」や「〇〇ちゃん」をさしていると思いこみます。
名前とは、それまで、世界と区別されていなかった広大な自己を、限定するもの。
それにたいして、「ぼく」や「わたし」は、本来、この広がりをもった自己をさす一人称代名詞だったはずですね。
【自分を知る】名前の力
古代には、人の名前を口にすることで、その人を支配できるとする考え方があるようですね。
実名敬避俗
実名を敬避する(敬って避ける)習俗という意味の語である。漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。
出典:ウィキペディア 諱
これはどういうことなのでしょう?
それは、先人たちが、ものと名前との関係を、真にとらえていたからかもしれません。
生まれたばかりのとき、自分とは、世界と一体化した広がりをもっていました。
それを一個の人格に限定したのは、名前で呼びはじめてからです。
名前がなければ、その「〇〇くん」は存在しない。
名前こそが、人格をつくっている。
その事実を知っていたからこそ、古代の先人たちは、名前を呼ぶことに慎重にならざるを得なかったのかもしれません。
【自分を知る】まとめ
今日は、子どもが自分を名前で呼ぶことから、自分について考えてみました。
- 3歳ごろ、言葉が発達しはじめたとき、それまで世界と一体となっていた自己が、自分というものを意識しはじめます。
- 自分を名前で呼ぶことによって、他人から区別された自分がつくりだされます。
「言葉こそが現実をつくっている。」
よく考えてみたら、不思議ですね。
言葉の不思議については、こちらにも書いてみました。
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言葉の意味から、自分を知る
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