都会からやってきたお友だちと遊んでいたときのこと。
息子が土を耕して遊んでいると、雑草が抜けて出てきました。
その雑草を手に取り、しげしげと眺めていたお友だちのお母さま。
「すごく美しい草ですね。おうちに持って帰って飾りたいくらい・・・」
Contents
【自分を知る】美はどこにあるか?
どこにでもある雑草。
わたしは、畑によく生えているその草が目の片隅に入ろうものなら、まるで家のホコリを払うように、無意識に引き抜いていました。
それを「美しい」だなんて!
頭をガツンと叩かれたようでした。
このお母さまの見ていらっしゃる世界は、きっと美しいものであふれているにちがいない・・・
わたしも見習わなくては。
ところで、美しいと思うことは人それぞれ。
では、美しさはどこにあるのでしょう?
草のなかにあるのではなさそうです。
わたしは、その雑草が美しいと思わなかったのですから。
今日は、プラトンの『饗宴』から、考えてみたいと思います。
ここでは、わかりやすくシンプルにしているので、本来の学問的な意味とずれている場合があります。
【自分を知る】プラトンのイデア論
美は、・・・それ自身が、それ自身だけで、独自に、唯一の形相をもつものとして、永遠にあるものなのです。
それに反して、それ以外の美しいものは、すべて、つぎのような仕方でかの美を分かちもつと言えましょう。
つまり、これらもろもろの、それ以外の美しいものは生成消滅していても、かの美のほうは、なんら増大減少せず、いかなる影響もこうむらないという仕方です。
プラトン(田中美知太郎編)『世界の名著 プラトンI』(中央公論社、1996年)
プラトンのイデアとは、あるものを、そのものたらしめているもの、といったらよいでしょうか?
あるものが美しいのは、美そのもの=美のイデアが、そこにあるからだと考えるようです。
イデア論(イデアろん、英: theory of Forms, theory of Ideas, 独: Ideenlehre)は、プラトンが説いたイデア(希: ιδέα、英: idea)に関する学説のこと[1]。 本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚している対象や世界とはあくまでイデアの《似像》にすぎない、とする[1]。
出典:ウィキペディア イデア論
たとえば、花。
花は、色も形もさまざまです。
けれども、あらゆる色や形の花を美しいと感じることができるのは、美しさそのものが花のなかにあるから。
ある色や形が美しいから、というわけではないと考えるようですね。
美のイデアが原型としてまずあって、この世にある美しいものは、その美のイデアを分有している。
この世にある美しいものたちは、生成消滅をするものだけれど、
原型である美しさそのものは、永遠不死のものである・・・
ということのようです。
ある雑草を、美しいと思ったお母さまと、何とも思わなかったわたし。
そのお母さまは、その雑草の中に美のイデアを見出したのでしょうか。
けれども、お母さまが「美しい」とおっしゃった言葉の意味は、わたしにもわかります。
美そのもの自体は、わたしも共有していたからです。
【自分を知る】まとめ
今日は、プラトンのイデア論から、自分について考えてみました。
- いろいろなものを美しいと感じるのは、そこに美そのものを観ているから。
- 美そのものを観ているとき、その者は不変の世界にいることができる。
わたしたちは、知らず知らずのうちに、目に写ったものを見ているのではなく、その奥にあるものをも見ているのですね。
プラトンについては、こちらにも書いてみました。
-
言葉の意味から、自分を知る
Contents 【自分を知る】言葉の意味の不思議 【自分を知る】「ほっぺたが落っこちる」 お餅つきのときのことです。 つきたてのお餅を丸めて、甘いあんこをかけて、子どもに差し出しながら言いました。 ...
続きを見る