先月、『24色のエッセイ』という本が発売されました!
著者の皆様、出版おめでとうございます!
さて、『24色のエッセイ』のなかに、羽木さまの「祖母と入れ歯」というエッセイがありました。
とても面白いエッセイです!
わたしも、これに因んで、一つエッセイに挑戦してみました。
息子と入れ歯
「じいじ〜」4歳になる息子は、祖父のやることなすことに興味津々。祖父の後にくっついてばかりいた。
じいじが庭でチェーンソーをはじめれば、自分も適当な形の木片を手に、「ぶんぶんぶーーーん」と薪を切るマネ。じいじがタイヤ交換をはじめれば、自分も車を持ち上げたいと、ジャッキの棒を離さない(おかげで仕事が進まない)。じいじが晩酌をはじめるころには、自分も一緒になっておつまみを拝借・・・というような具合だ。
そんなある日。歯磨きをしようとしたときのこと。息子が鏡の前で両頬を引っ張って、「イ〜」とやっている。なかなか歯ブラシを手にしようとしない。私が、「一体、何をやっているの?」と尋ねると、彼は真面目な顔でこう答えたのだった・・・「ママ、じいじみたいに、歯をとって。」
歯はとれません!
入れ歯をパカっと外して、歯磨きをしている祖父を見て、彼は驚くどころか、「歯って、とれるんだ!これは楽ちんだ!」・・・こう思ったに違いない。息子の辞書のなかには、入れ歯という概念はなかったのだ。
これは、よく考えてみたら、不思議なことだ。入れ歯はどこに存在するのか?
祖父の口からパカっと外れた人工的な歯。これは息子にとって、歯でこそあるが、入れ歯ではなかった。たとえ、目で見て触れられたとしても、そこに入れ歯は存在していなかったのだ。
他方、祖父にとって、口から外したそれは、まぎれもなく入れ歯だ。それは抜け落ちてしまった自らの歯の代わりに、口にはめて使うものだ。
つまり、入れ歯とは、その人工的な物体の機能を認識している意識のなかにしか存在していない、ということになる。存在は認識のなかにある。
普段、私たちは、現にここにあるものが、ない、なんて決して思わない。けれども、それはどこまでも、ここにあると「思っている」のであって、この「思っている」が、どうも曲者のようなのだ・・・認識の異なる4歳児の言葉に、はっとしたのだった。
この、『24色のエッセイ』。
わたしがご指導いただいている先生も、著者として参加されています。
ブログに、Webライターに、本の出版。
これからの時代、主婦の自立として、こんな職業の可能性があるのですね。
ご興味がおありでしたら、ぜひ、スポットセッションで。