自分がわからない

死から、自分を考える

「〇〇県在住です」

と書かれたシールが、前を走る車のリアガラスに貼ってありました。

よく見ましたら、他県のナンバープレート。

コロナウイルスで、県をまたぐ移動を自粛するように言われるなか、非難されることのないよう、こんなステッカーまで出回っていたのですね。

 

なぜこんなにも、コロナウイルスにかかることを、人々は怖れているのでしょう?

 

死ぬのが、怖いから。

ということでしょうか。

 

でも、死ぬって、何なのでしょう?

今日は、死というものから、自分について考えてみたいと思います。

 

Contents

【自分がわからない】身体の死

 「・・・ぼく、もう死んだようになるんだけどね、それ、ほんとじゃないんだ・・・・・・」

ぼくは、だまっていました。

「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、持ってけないの。重すぎるんだもの」

ぼくはだまっていました。

「でも、それ、そこらにほうりだされた古いぬけがらとおんなじなんだ。かなしかないよ、古いぬけがらなんて・・・・・・」

 

サン=テグジュペリ(内藤濯訳)『星の王子さま』(岩波書店、2007年)

王子さまが、自分の星に帰るときの場面です。

王子さまは、地球に降り立って1年になるその夜、自分の星がちょうど真上にくるその場所で、毒蛇に噛まれることを選びます。

愛するバラの花のもとへ行くために。

 

王子さまは、からだは、古いぬけがらだと言っていますね。

たしかに、わたしたちは、死骸を目にすることはできます。

けれども、死そのものは、見ることができません。

動かなくなった身体があるだけです。

 

【自分がわからない】死とは?

では、死んだ人はどこへ行ってしまったのでしょう?

いなくなってしまったのでしょうか?

王子さまは星へ帰れたのでしょうか?

 

生きているとき、その人はそこにいる、と感じます。

存在が、ある。

では、存在が、「ない」と考えられるでしょうか?

 

「ない」ものは、ないのだから、「ない」といわれます。

ないものは、どうしたって考えられませんね。

 

いない、ということもまた、ない。

死そのものは、ない。

したがって、ないものを怖がることもまたできない。

 

死がないのだとしたら、肉体が動かなくなったあとも、何らかの形で存在している、ということになりそうです・・・

 

【自分がわからない】まとめ

今日は、死というものから、自分について考えてみました。

  • わたしたちが目にすることができるのは、動かなくなった肉体です。
  • 死=「ない」ということは、「ない」のですから、論理の構造上、考えることはできません。

理論的には、ないものを怖がる道理はない、ということになりそうです・・・

自分と、生死のことを、こちらにも書いてみました。

言葉の意味から、自分を知る

Contents 【自分を知る】言葉の意味の不思議 【自分を知る】「ほっぺたが落っこちる」 お餅つきのときのことです。 つきたてのお餅を丸めて、甘いあんこをかけて、子どもに差し出しながら言いました。 ...

続きを見る

     無料メルマガ登録はこちら
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

うめとも

田舎で農家のパートをしながら、やんちゃな一人息子の子育てに励むシングルマザー。息子の成長とともに、自分のキャリアを再び考え始める。ドイツ哲学が好き。

-自分がわからない
-

© 2024 わたくし 研究室