虚数というものを教えていただきました。
といっても、ちゃんと理解できたわけではありませんが・・・
虚数というのは、2乗したときに0未満の実数になるというもので、現実には存在しない数だそうです。
面白いのは、実数だけの世界では、横に伸びる数直線だけの世界しか構成できませんが、
垂直方向に伸びる虚数という概念があることによって、平面をあらわせるようになるのだそうです。
数学において、複素数平面(ふくそすうへいめん、独: Komplexe Zahlenebene, 英: complex plane)[1]あるいは数平面[2](すうへいめん、独: Zahlenebene)、z-平面とは、複素数 z = x + iy を直交座標 (x, y) に対応させた直交座標平面のことである。複素数の実部を表す軸を実軸 (real axis)(実数直線)、虚部を表す軸を虚軸 (imaginary axis) という。
出典:ウィキペディア 複素平面
横方向に伸びる軸と、垂直方向に伸びる軸。
この考え方が、哲学もそうかもしれない、と思ったのでした。
ここでは、わかりやすくシンプルにしているので、本来の学問的な意味とずれている場合があります。
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【自分がわからない】ちがう言葉だと知る
たとえば、日本語とドイツ語。
これだったら、明らかにちがう言葉だとわかりますよね。
文字も全然ちがいますし、そもそも、何て読めばよいかすらわかりません。
では、哲学用語と日常用語ではどうでしょうか?
難しい哲学の本、日本語に翻訳されています。
わたしたちが日常使うのも、日本語です。
けれども、哲学用語と日常用語も、日本語とドイツ語と同じぐらい、全然別の言葉だと思うのです。
言葉の使い方も、それが表す意味内容もちがう・・・
日本語とドイツ語でしたら、ちがいは一目瞭然です。
けれども、哲学用語と日常用語は、同じ文字・文法を使っているので、ちがっているとわかりにくい。
しかも、哲学用語の法則や意味内容を知らなくても、日常の感覚で、哲学の本の字面は追えてしまう・・・
それが、哲学用語はわからない、の正体ではないでしょうか?
わからないのではなくて、ちがう言葉なのだと知ることなのだと。
日本語とドイツ語とのちがいは、いわば、実数直線のような、横方向のちがいだとしたら、
哲学用語と日常用語とのちがいは、いわば、虚数のあらわすような、垂直方向のちがい。
それぐらい、日常の思考と哲学的思考は、意識の活動の仕方が異なっている気がします・・・
【自分がわからない】哲学的思考と日常的思考
日常的な思考が扱うのは、有限な世界。
哲学的な思考が扱うのは、無限の世界。
といったら、わかりやすいでしょうか?
日常では、原因があって→結果があるという、現象の世界を分析します。
一方、哲学は、どうしても考えられない無限を、どうしようもなく考えようとする営みといったところでしょうか?
それは、詩人にたとえられるかもしれません。
詩人は、眼前の自然の美しさを描写しようとします。
哲人は、眼前にみえている存在を描写しようとします。
いかに、その神秘を、美しい言葉であらわすか。
言葉と言葉以前との、そのぎりぎりの営みの足跡が、哲学用語なのだと感じます。
【自分がわからない】まとめ
今日は、哲学用語から、自分のことを考えてみました。
- 「自分とは何か?」それを考えるとき、日常とは全く異なった意識と言葉を使います。
- それは、いわば虚数のように、垂直方向に次元の異なる意識のあり方を反映しています。
哲学の用語は、文脈から、自分が考えているあのことを指しているのかな?と思いながら、読み進めてゆけばよいと思います。
難しいのではなくて、意味がちがうだけですから。
・・・といってしまうと、専門の先生方には怒られてしまいそうですが。
言葉の不思議は、こちらにも書いてみました。
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