自分を知る

心はどこにある?

弟の同級生で、将棋の奨励会へ進んだ友人がいました。

プロ棋士ですね。

 

その友人が言うには、対局のときにずーと考え続けていると、

ボコっと頭が膨らむのだそうです!

 

これぞまさしく、物質と精神の接続の瞬間!?

やはり、心は脳にあるのでしょうか???

 

Contents

心はどこにある? デカルトの『情念論』

デカルトは、脳の奥の松果腺で、精神と身体とがつながっていると考えたそうです。

 

1643年5月の公女エリーザベトからの書簡において、デカルトは、自身の哲学において実在的に区別される心(精神)と体(延長)が、どのようにして相互作用を起こしうるのか、という質問を受ける。この質問は、心身の厳格な区別を説くデカルトに対する、本質的な、核心をついた質問であった。それに対してデカルトは、心身合一の次元があることを認める。この書簡の後もデカルトは薄幸な公女の悩みや悲しみに対して助言をしたり、公刊された書物の中では見せなかった率直な意見を述べたりと、書簡のやり取りを続け、その間に情念はどのように生じ、どうすれば統御できるのか、というエリーザベトの問いに答える著作に取り組んだ。それは1649年の『情念論』として結実することになる。

『情念論』において、デカルトは人間を精神と身体とが分かち難く結びついている存在として捉えた。喉が痛いのは体が不調だからである。「痛い」という内部感覚は意識の中での出来事であり、外在としての身体と結びつくことは本来ないはずである。しかし、現実問題としてそれは常識である。デカルトはこの事実に妥協し、これらを繋ぐ結び目は脳の奥の松果腺において顕著であり、その腺を精神が動かす(能動)、もしくは動物精気 (esprits animaux) と呼ばれる血液が希薄化したものによって動かされる(受動)ことによって、精神と身体が相互作用を起こす、と考えた。

 

出典:ウィキペディア「デカルト

 

物質ではない心と、物質である身体とは、別個のものであると考えるのは自然な気がします。

けれども、現に、心と身体は影響し合っています。

 

ストレスで病気になったり、

逆に、笑うと健康になったり。

 

では、目に見えない非物質的なものと、目に見える物質的なものとが、

どこかで「つながっている」と考えることは可能なのでしょうか?

 

心はどこにある? アウフヘーベン

でも、物質はあくまでも物質としか「つながり」を見出せないように思います・・・

 

たとえば、時計は、長針と短針とが、それぞれぐるりと文字盤の上を回っているけれども、

その機械のどこかから、時間が出てくるわけではないように・・・

 

うまくいえませんが、

物質があって、その反対に、物質でないものも確かにあって、

けれども、その両方が相互に存在している次元がある・・・

 

「つながり」は、物質界にあるのでも、非物質界にあるのでもなくて、

さらに高次の次元で統合されてある・・・

 

その、高次元ではすでに存在しているものが、

物質の次元でみたら脳としてのカタチをしていて、

非物質の次元でみたら心とよばれるものとしてある・・・

 

つまり、高次元の存在の表現、、としての、脳であり、心である・・・

 

だから、その存在の活動によって、その表現である身体や心は、影響を受けている・・・

 

 

前の弟の友人が、考えているときに頭が大きくなるのは、

意識の拡大が物質に作用したのであって、

脳の中に精神があるというわけではないのではないか???

・・・と思われるのです。

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うめとも

田舎で農家のパートをしながら、やんちゃな一人息子の子育てに励むシングルマザー。息子の成長とともに、自分のキャリアを再び考え始める。ドイツ哲学が好き。

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