ブレイデイ・みかこさんの、
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読ませていただきました。
貧困、人種差別などで、格差が拡大するイギリス。
そのなかで、中学生におなりになった息子さんと、その友人たちが、たくましく成長してゆく様子が描かれています。
わたしたちは、どうしても、ステレオタイプでものごとを見てしまいがち。
自分がマイノリティの立場になってはじめて、自分のかけていた色眼鏡に気がつけるのかもしれません。
このような、リブリオエッセイを書いてみました。
グリーンなマージナライズド
「ねえ、パパは?」
ギクっとした。
いつか聞かれるとは思っていたが、こんなに早くやってくるとは。
保育園に、当時2歳だった息子のお迎えに行ったとき、お友だちに聞かれたのだった。
この田舎の保育園では、両親がそろっている家庭がほとんど。
シングルマザーは、わたしと、あともう1人しかいない。
息子に父親がいないことに、2歳でも、もう気がついている。
「マージナライズド(周縁化されている)」とは、こういう気分のことだろうか?
少し離れた市営団地のほうは、シングルマザーが多いと聞いた。
その地区の学校はガラが悪いといって、わざわざ自宅から遠く離れた別の小学校に通わせる家庭もあるそうだ。
それを聞いたときは無関心だったが、いざ自分が引っ越し先を決める段になって、気がついた。
「あれ、わたしたちこそ、その団地に入るべきじゃない?」
いつのまにか、自分が避けられる側になっていた。
「子はかすがい」といわれる。
これは洋の東西を問わず、昔からそうだったらしい。
アリストテレスだってこういっている。
子供は両者の絆であると考えられる。
子供のないひとびとは早く別れやすいゆえん。
けだし、子供は双方にとっての共同的な善であるが、共同的なものはお互いを結合させるものなのだからである。[1]
ところが、我が家の場合は逆だった。
腕に抱いた赤ちゃんの安らかな寝顔を見つめながら、わたしは、急に真剣になった。
この子を幸せにするには、わたしが幸せにならなくちゃ。
そうしたら、いつのまにか、夫のそばにいられなくなっていた。
数日後、保育園のお迎えのとき、息子と例のお友だちが遊んでいた。
「パパ、しんじゃったんじゃない?」
「しんじゃったんだー、あはは」
と言って、笑い合っていた。
2歳児なりに、謎の答えを見つけ出したらしい。
彼はこの「マージナライズド」を、どうやって乗り越えてゆくのだろう?
その未熟な小さい背中を見送りながら、わたしが負わせてしまったものの重みを考えていた。
[1] アリストテレス(高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(下)』(岩波書店、2012年)128ページ。