保育園へお迎えに行くと、息子がお友だちと遊んでいる真っ最中でした。
お友だちは、松ぼっくりを山のように積み上げて「パンやさん」。
その隣で、息子は、お皿に砂を入れて「カレーやさん」。
すると、息子が、お友だちの松ぼっくりを、ちょいと拝借しようとしました。
「ぼくのだから、ぜんぶとっちゃだめ。」と、お友だち。
息子は、こう言いました。
「だいじょうぶ。ぜんぶはとらないから。」
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【自分を知る】認識の違い
お友だちは、1つもとっちゃだめ、という意味で「ぜんぶとっちゃだめ」と言いました。
けれども、息子はそれを、「ぜんぶはとっちゃだめ」という意味に受け取って、ぜんぶ取らないで1つ2つ取るぐらいなら構わないと思ったのでした。
同じ「ぜんぶとっちゃだめ」という発言に対して、二人は違う認識をもったのですね。
この二人のように、わたしたちは一人ひとり認識が違っているのでしょうか?
客観的な認識というものは、どこにあるのでしょうか?
今日は、ドイツの哲学者、カントの認識論を見てみます。
イマヌエル・カント(Immanuel Kantドイツ語: [ɪˈmaːnu̯eːl ˈkant, -nu̯ɛl -]、1724年4月22日 - 1804年2月12日)は、プロイセン王国(ドイツ)の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。
『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。フィヒテ、シェリング、そしてヘーゲルへと続くドイツ古典主義哲学(ドイツ観念論哲学)の祖とされる。
出典:ウィキペディア イマヌエル・カント
ここでは、わかりやすくシンプルにしているので、本来の学問的な意味とずれている場合があります。
【自分を知る】カントの認識論
カントは、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うと考えました。
これが有名なコペルニクス的転回といわれるものです。
経験自身が悟性を必要とする一つの認識様式であり、
この悟性の規則を私は、
私に対象が与えられる以前に、したがってア・プリオリに、私のうちに前提しなければならず、
悟性のこの規則はア・プリオリな諸概念としてあらわされるものであって、
それゆえ、経験のすべての対象はこれらのア・プリオリな諸概念に必然的に従い、
それらと一致しなければならない
イマヌエル・カント(原佑訳)『純粋理性批判』(平凡社、2005年)
対象が、認識能力のア・プリオリな=先天的な形式によって構成される、と考えるのです。
この、先天的形式が認識能力にあることによって、客観的な認識が可能になります。
見ているものに客観性があるのではなく、それを見ている見え方に客観的なものがあると考えるようですね。
【自分を知る】まとめ
わたしたちは、自分が認識している世界を見ています。
カントのように、その経験を認識している能力に先天的形式があるとすれば、客観的な認識が可能であると考えられます。
自然の法則のように、皆が共通して認識できるもの。
この文明社会では当たり前のことですが、よく考えてみたら、客観的なものが認識できるって不思議ですね。